池田の依頼を受けた細井管長は昭和四十七年七月六日、総本山からわざわざ東京の妙縁寺に下向し、私と対面された。
これまでの経緯は細井管長こそよく知っている。すなわち、大事の御遺命を守るため、また学会の圧力から猊座の尊厳を守るため、私が学会代表に署名させた確認書は細井管長の手もとに収められているのだ。
この護法の赤誠を裏切った後ろめたさがあったのであろう、細井管長はこの日、極度に緊張し、面をこわばらせていた。
そして唐突に「きょう、私は死ぬ気で来ている」と切り出し、「このような決意で来ているのだから、何とかわかってほしい」という姿勢で、くり返し事態の収拾を要請された。
私は黙って、ジーっとお聞きしていた。やがて話の途切れたところで、静かに申し上げた。
「私どもは愚かな在家、むずかしい御書・経文のことは全く存じません。ただし、堅く約束された確認書が弊履のごとくふみにじられた事は、道理とも思えません。そのうえ約束を破った学会・宗務当局はかえって『訓諭』を障壁として、妙信講に対し『猊下に背く者』と悪罵し、解散処分を以て威しております。このようなことは断じて許しがたき所行と存じます」
細井管長はいわれた。
「宗務院の早瀬と阿部はすでに辞表を出し、いま私が預っている。また確認書はたしかに私の手許にある。この事実を否定する者は宗門にはいない。今回、確認書の約束が破られたような形になったことは、まことに遺憾に思っている」
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