そこで私は、「訓諭」が御遺命に背いていることを、静かにゆっくりと、しかし言葉を強めて一々に指摘申し上げた。
詰められた細井管長は
「実はあの訓諭には、まずい所がある。後半の『即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり』という部分がまずかった。あれでは、最終の戒壇を前以て建てたことになってしまう。前半の『……現時における事の戒壇なり』で止めておけばよかったが、宗務院に付け加えられてしまった」
と、暗に学会の意を受けた阿部教学部長が付け加えたことを示唆した。
私は単刀直入に申し上げた。
「では、ぜひ訓諭をご訂正下さい」
さぞやお憤りと思ったところ、少考ののち、意を決したように
「わかりました。訂正しましょう。しかしまさか訓諭を訂正するとはいえないから、訓諭の新しい解釈として、内容を打ち消す解釈文を『大日蓮』に載せましょう。その原稿は必ず前もって浅井さんに見せますから」
と約束された。私はさらに申し上げた。
「あの訓諭を笠に着て、阿部教学部長は『国立戒壇論の誤りについて』を書き、それがいま聖教新聞に連載されております。すぐに中止させて頂きたい」
細井管長の決断は早かった。傍らに侍る藤本庶務部長に
「今すぐ学会本部に電話しなさい」
と命じた。連載は翌日から止まった。
話が一段落した時、細井管長は松本日仁妙縁寺住職に命じて筆と紙を取り寄せ、自身の決意を二枚の「辞世の句」に表わし、一枚を立会いの松本住職に、一枚を私に下さった。
この訂正文は七月十二日、約束どおり総本山において私に手渡された。あとは宗門機関誌に掲載されるだけであった。
だが、学会がこれを黙って見ているわけがなかった。北条副会長は本山に飛び、細井管長と直談判をして機関誌掲載を中止させた。
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