顕正会発足50周年記念「誑惑の正本堂 崩壊す!!」 |
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自界叛逆の大罰
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その中に、不思議なことが起きてきた。あれほど一枚岩のごとくに見えた宗門と学会の間に、亀裂が生じて来たのだ。これこそ諸天による自界叛逆の罰であった。
この罰は、正本堂の完成後、ほどなくして顕われた。
池田大作には憤懣があった。それは、細井日達管長が正本堂の欺瞞を自ら承認しておきながら、顕正会の浅井と会えばその都度変心した、ということだった。
この憤懣が、正本堂建立一周年記念法要で爆発した。彼は、法要から帰る途中の細井管長をつかまえ、多くの学会員の見ている前で、「恩しらず」と罵った。さらに腹癒せに「学会に感謝の印として、十億円を寄附してほしい」と求めた。
彼は後日、側近の原島嵩に、なぜこのような挙に出たのかを、次のごとく説明している。
「あのとき、なぜ怒ったかといえば、妙信講のとき、猊下はあっちについたり、こっちについたりしたからだ。覚えておけ!」と。
これは、あり得べからざる光景である。信徒が「法主」を強請ったのだ。だが――細井管長はこの要求に随って十億円を出している。
これが、学会と宗門との関係であった。池田の金力に籠絡されてひとたび正本堂のたばかりに与した以上、細井管長にはこの無体な要求も拒絶できなかったのだ。
とはいえ、信徒の面前で罵られたうえ、十億円をむしり取られた細井管長の心には瞋恚が湧いた。これが宗門・学会の抗争へと発展したのである。
抗争が始まるや、細井管長のもとには二百余名の反学会活動家僧侶が集まり、「学会と手を切るべし」と気勢を上げた。この反学会僧侶グループが、後の「正信会」である。
両者の争いは、「法主」を旗印とする宗門側が有利であった。池田大作は形勢不利と見て、法華講総講頭ならびに創価学会会長の職を辞して恭順を装った。これはいつもの手で、蔭では反撃の機を窺っていたのである。
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細井管長、急死
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その中、抗争に疲労困憊した細井管長は、病を得て総本山近くのフジヤマ病院に入院した。
そして、退院予定前日の昭和五十四年七月二十二日未明、突如激甚の発作に襲われ、急死を遂げたのであった。
およそ冨士大石寺の貫首として、その最も重大な責務は、次期貫首を撰定して「御相承」あそばすことである。しかるに細井管長は、この大事をなし得なかった。
「一切は現証には如かず」と。細井管長のこの臨終を見るに、まさに御本仏一期の御遺命に背き奉った罰という以外にはない。
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