顕正会発足50周年記念「誑惑の正本堂 崩壊す!!」
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阿部日顕の登座

 さて、細井日達管長の急死は宗門全僧侶に衝撃を与えた。その不安と混乱の中、阿部日顕が
 「実は自分が内々に御相承を受けていた」
 と自己申告して、管長急死で茫然自失に陥っていた一山大衆を尻目に、猊座に登った。まさに一瞬の出来事だった。この偽貫首登座劇が、池田と心合わせであったことはいうまでもない。
 阿部日顕管長が登座するや、池田大作は再び勢いを増した。そして「御法主上人猊下を断じてお守りする」との叫びを繰り返した。
 阿部日顕も池田に
 「偉大なる、指導者ありて広布また、道にこころし、進みゆくらむ」
 との色紙を登座の翌月に贈っている。二人の癒着の固さは、細井管長の時を凌いだ。

「早く遷座し奉れ」

 登座四ヶ月後、私は諫暁を開始した。正本堂落成以前の細井日達管長に対する諫暁は、正本堂の誑惑を訂正せしめることにあったが、阿部日顕への諫暁は、誑惑・不浄の正本堂に居えられ奉っている大御本尊を、早く元の奉安殿に還し奉れと迫るにあった。ゆえに阿部への第一回の諫暁書の末文には
 「阿部管長には早く改悔し、速かに正本堂より奉安殿に大御本尊を御遷座申し上げ、以て誑惑を清算、違背の大罪を償われんことを」と記した。
 ――国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を否定するために建てた正本堂に居え奉っているのである。御本仏の法魂いかで安穏に住し給うべきと思えば、私は一日として心安き日はなかった。
 以後、阿部日顕への諫暁をたゆむことなく、連々と進めた。
 だが阿部日顕に改悔の色はなかった。

悪の二人三脚

 昭和五十七年十月には正本堂建立十周年の記念行事が行われた。席上、阿部日顕は百六箇抄の
 「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」
 の御文を引き、あたかも正本堂がこの「富士山本門寺本堂」に当るかのごとき、まやかしの説法をした。
 同時にこの席で、御遺命破壊の大謗法者・池田大作に、あろうことかその功績を讃えるとして「賞与本尊」を授与している。
 さらに二年後の昭和五十九年一月二日、日顕はわざわざ池田の誕生日に合わせて、彼を日蓮正宗信徒の代表たる法華講総講頭に復活させている。
 ここに再び「時の法主」と「総講頭・池田大作」との、悪の二人三脚が始まったのである。そしてこの二人三脚は、六年後の昭和六十五年・大石寺開創七百年を目指していた。
 昭和五十九年三月三十一日、総本山で「大石寺開創七百年記念慶祝準備会議」が開催された。この会議は、あたかも昭和四十年の第一回正本堂建設委員会を彷彿させるものだった。
 席上池田は「大石寺開創七百年を記念し、今後十年を目標に、新寺院二百箇寺を建立寄進したい」と述べた。
 二百箇寺といえばとてつもない数である。この莫大な供養は何を意味するのか。これこそ細井管長の時にも増した供養をもって阿部日顕の心を蕩かし、「本門寺改称」の大陰謀を実現させようとするものであった。


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