顕正会発足50周年記念「誑惑の正本堂 崩壊す!!」
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「本門寺改称」の大陰謀

池田大作の最後の執念!

「本門寺改称」とはいかなるものかといえば、大石寺の名称を「本門寺」と改めるというものである。本来「本門寺」とは、広布の暁の国立戒壇を指すことは御付嘱状に明らかである。しかし池田は、偽りの広布達成を宣言した上で、大石寺をそのまま「本門寺」と改称しようと企んだのである。
 その目的は、この改称が実現すれば大石寺の正本堂はそのまま本門寺正本堂になり、この正本堂を百六箇抄の「富士山本門寺本堂」、また一期弘法付嘱書の「本門寺の戒壇」と偽ることができる。このとき正本堂の誑惑は完結するというものである。―これこそ池田大作の胸に秘めた最後の陰謀であった。
 思えば池田は、正本堂落慶式の時には顕正会の阻止によって「広布達成・御遺命成就」の宣言をなし得なかった。しかしすでに顕正会は追放した、邪魔者はいない。よって六年後の昭和六十五年大石寺開創七百年を機に、何としても「本門寺改称」を実現したい――と執念を燃やしたのである。

解散処分直後に伏線

 池田の陰謀は用意周到だった。彼は、顕正会を解散処分に付した三月後の昭和四十九年十一月に創価学会総会を開き、細井日達管長に次のように言わせている。
 「日本国の広宣流布はいつかといえば、日本国の三分の一が入信したときこそ広宣流布したといえる。その時には、我が大石寺を、大聖人御遺命の富士山本門寺と改称することもあり得ると信ずる」(大日蓮・昭和50年1月号)と。
 この説法を承けて、当時総監代務者だった阿部日顕は宗門機関誌にこう書いている。
 「御法主上人猊下には、日本全民衆の三分の一が入信した時は広宣流布であり、その時、本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南あそばされました。(中略)吾々は、法主上人の鳳詔を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、邁進致そうではありませんか」(大日蓮・昭和50年1月号)と。
 「本門寺改称」はこのとき、宗門・学会の密かなる「大目標」となったのだ。
 しかしその後まもなく前述の宗門・学会の抗争が起きて一時中断。そして阿部日顕の登座により、再びこの陰謀が動き出したというわけである。
 池田にとっては、「日本国三分の一の入信」などという欺瞞は、何時でも発表できることだ。彼はこの偽りの宣言を、大石寺開創七百年に当る昭和六十五年(平成二年)と定め、さらに同年の御大会式に「本門寺改称」を実現しようと企んでいたのである。

陰謀粉砕に立つ

 もし、この「本門寺改称」が強行されれば、そのとき御本仏の御遺命は完全に破壊される――。
 私はこの陰謀粉砕に敢然と立ち上がった。昭和六十三年八月の総幹部会で、始めてこの陰謀を全顕正会員に知らしめ、次のごとく述べた。
 「顕正会が日蓮正宗にある限り、このような`誑惑の完結aは断じて許さない。いや、大聖人様がお許しにならない。……不思議にも顕正会の二十万法城は、池田が狙いをつけている昭和六十五年の前半に成しとげられる。これこそ、大聖人様が顕正会をして戦わしむる御仏意である」と。


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