細井管長は約束が守れなかったことを私に告げるため、再び妙縁寺に下向された。そして憔悴の色を面に表わしながら 「私には、もうどうにもならないのです」と云われた。 この一言こそ、御遺命を売り渡してしまった管長の、悲哀と苦悩であった。 私は申し上げた。「私が決着をつけますから、どうか学会代表に、法論に出てくるよう、猊下からお申しつけ頂きたい」と。 私はこのとき、肚を決めていた。「もし学会が、正本堂を御遺命の戒壇と偽ったまま御遷座を強行するならば、自ら男子部の精鋭を率いて大石寺に上り、身を挺して断じてこれを阻止しよう」と。 学会も、この捨身の決意を感じていたに違いない。ゆえに両者の間で決着がつかなければ落成式ができないこともわかっていたのであろう。そこで法論に応じたのである。
かくて昭和四十七年九月十三日から七回にわたり、常泉寺で法論が行われた。学会代表は秋谷栄之助副会長・原島嵩教学部長・山崎正友弁護士の三人。彼等も背水の陣であった。 火を吐くような激論が重ねられたが、道理と気魄の前に、学会代表はついに屈伏した。 その結果、学会は和泉理事長の名を以て、正本堂の意義を訂正する一文を、十月三日の聖教新聞紙上に掲載することを約した。 十月三日、学会はこの約束を果した。実に、落慶式のわずか九日前であった。